主計町の歴史

History

大正初年頃の主計町

主計町はその町名の由来を慶長期(1596〜1615)の加賀藩重臣である富田主計重家の屋敷があったことにちなむとされています。近世の比較的早い時期から町人地の町並みが形成されていただことが、当時の絵図などからうかがわれ、地区内で浅野川に注ぐ西内惣構掘を挟んで、武士の居住地として隣接していました。この由緒ある町名も、昭和45年に「尾張町2丁目」と変更されていましたが、平成11年に全国で初めて旧町名である「主計町」が復活されました。

近世における茶屋町としての性格の発祥や時期は必ずしも明確ではありませんが、文化・文政期から天保期にかけて(1804〜1843)の様子を記した文献には、西に隣接する母衣町に芸妓衆が住まい、宿屋などが立地していたことなども記されており、この地は、金沢城下から北国街道下口が発する浅野川大橋のたもとにあって、浅野川の水運とともに人や物資が行き交う大変繁華な場所として、茶屋町に近い性格を帯びた所として形成されてきたと考えられています。

昭和初期の風景(「金城名花揃」昭和4年 紅燈社刊より)

明治期以降の資料によれば、主計町は、茶屋町として公式の免許地であったことはないものの、東・西・北の名茶屋町とあわせて、主計町の茶屋や芸妓が紹介されていることから、実質的には茶屋町として成立していたことがうかがわれます。この明治期の界わいの様子は、隣接の下新町に生まれ育った泉鏡花の多くの作品に描かれるところとなりました。

主計町がその最盛期を迎えた昭和初年頃には、幕末まで武士の居住地であった西内惣構掘西側に料理屋や演舞場を始めとして茶屋が立地し、主計町全体が茶屋町として成立していただことが確認できます。その総数は48軒を数え、地区内のほとんどの建物が茶屋として利用されていました。また、この頃までに、従前の二階建てから三階建てへの増築や石置板ぶき屋根をかわらぶきとする改装が多く行われ、今日に伝わる特徴ある街並みが形成されました。

主計町はそのころ浅野川の畔に軒を連ねた茶屋が、その灯を川面に写し、行き交う人々で賑わった様子を、そこに息づく伝統文化に彩られたなりわいとともに、今も美しく伝えています。

【出典】
金沢市の伝統的建造物群保存地区 〜茶屋町(東山ひがし・主計町)〜
平成26年4月発行